トップ > 製品紹介 > 空母決戦Ver1.5(戦争までの流れ)

空母決戦Ver1.5

戦争までの流れ

このページでは、明治維新を果たした日本が、近代化を図り、欧米と同格の国づくりを行うも、大戦へ引きずり込まれて行った経緯を考証します。
(歴史の授業でも何故か省略されがちですので)
日本が鎖国を続けていた時代、アジアの諸国が列強諸国により植民地化されていきます。
その流れに危機を感じた日本人は、苦労の末、無事に明治維新を果たし、一丸となって近代化を図ります。 その辺りから始めます。

岩倉使節団1871-1873

岩倉使節団

色々と苦難の末に、とりあえず明治維新を果たした日本は、早速、新しい国作りに奔走します。
当時のアジアは、欧米列強の国々に次々と植民地化され、その勢いは日本の国境へと近付いていました。
しかし、そこから来る将来への不安感が、明治維新を早め、成功へ導いた原動力ともいえます。
それまで数千年に渡って君臨してきた中国でさえ、内部の腐敗と、列強諸国の侵食により、その後100年以上も低迷する時代を迎えた程です。

そういう時世において、維新を果たした日本が選択した道は、欧米列強に臣従して生き残る道ではなく、あくまで同格の国家として生き残る道でした。
と、言うのは簡単な事ですが、当時の苦労は計り知れなかったものと思われます。
(世界的に見て当時の日本は人口3000万ほどの近代化に遅れた田舎の小国という認識です)

まずは、岩倉具視を中心とする使節団が、欧米各国を回り、軍事・司法・外交・内政といった諸外国の政治のシステムを研究します。
岩倉使節団の訪問国は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスなど。
そうして、「欧米列強と対等な国づくり」が始まります。

(*岩倉具視は現在の500円硬貨が出来る前の500円札の肖像画に採用されています)

西南戦争1877

西南戦争1877

岩倉使節団が派遣されていた時期も、維新後の内政処理は、国内組によって行なわれていました。
しかしながら、明治維新を成功に導いた武士階級は、生活が安定せず不満が溜まっていき、そのはけ口を求めるようになります。

その為、西郷隆盛に代表される征韓論なども出始め、国内でも、まだまだ時機尚早とする意見等と、激しく対立。
そのような国内情勢の末、西南戦争という国内最後の内戦を経て、近代国家への道を切り開いていく事になります。
残念な事に、この戦争において、西郷隆盛、木戸孝允という明治維新の中心人物を失ってしまいます。

また、大久保利通も後に暗殺されてしまいますが、こうした多くの人材を失いながらも、近代化への軸を見失う事なく、国家づくりを行なえていけた事は、明治政府がそれだけ国家としての機能を持ち始めていた、という事でしょうか。

日清戦争1894-1895

日清戦争1894-1895

清国に属しながら日本とも国交を持ってきた朝鮮と、日本(薩摩)に属しながら清国とも国交を持ってきた琉球。
この曖昧な関係を清算すべく、起こるべくして起こった戦争だとも言えます。
欧米列強諸国も、日本と清国、お互いの消耗を狙っていたのか、当初は、日本の進出には目をつぶっていた様です。
結果、訪米諸国の予想に反し、近代化に成功していた日本軍の圧勝に終わり、これにより清国としては大変屈辱的な、下関条約を結ぶ事になります。

しかしながらこの条約内容に、フランス、ドイツ、ロシア、の三国から、三国干渉と呼ばれる激しい勧告を受け、遼東半島の利権は放棄。
この事が、後の日露戦争の引き金ともなります。
(遼東半島の利権放棄が目立つものの、台湾を割譲させる事には成功してます)

また、この条約で清国が受け入れた新たな不平等な条約には、最恵国待遇の適応により、欧米列強諸国も強かに便乗してきます。
この事は、アヘン戦争同様、清国にとって衰退していく一因になりました。

日露戦争1904-1905

日露戦争1904-1905

日清戦争にて、清国に勝った日本の、次の仮想敵国はロシアでした。
極東地域より南下を目指すロシアと、朝鮮半島に影響力を持ち始めた日本、両者がぶつかり合うのは時間の問題でした。
(この直前の露土戦争講和によりロシアは黒海方面の南下を断念せざるを得なかった)

ただ大国ロシアの実力は侮りがたく、単独で立ち向かうのは困難でした。
欧米列強諸国にとっても、ロシアの更なる強大化は望ましくなく、この対抗勢力に清国を打ち破った日本を充てるのも、自然な流れでした。
日英同盟によりイギリスは日本を支援、ロシアよりの、フランス、ドイツ両国もロシア支援を行わない所が強かです。
三国干渉による遼東半島の利権放棄も、対露戦略として国内世論の操作に利用されました。
(日本が放棄した遼東半島はロシアが租借してしまった)

そうして発生した日露戦争ですが、後の第一次世界大戦を予言される陣地戦は、一進一退を繰り返し、消耗戦へと向かいます。
結果的に、日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃破した事と、首都での暴動が発生した事もあり、講和への道を辿ります。
(アメリカの仲介によるポーツマス条約)

しかしロシア側には日本に負けたという意識は無く、講和の条件も日本が望んでいた条件を勝ち取る事は出来ませんでした。
(欧米列強諸国も日本のこれ以上の強大化は望んでいませんでした)
望んでいた内容の講和条件は勝ち取れませんでしたが、明治維新後の、欧米列強諸国と同格の国にする、という目標は、ここに来てようやく達成できてきたと言えるでしょう。
残念な事は、軍事的な勝利と外交上の失敗、というとらわれ方が、後の軍部の台頭へと繋がっていく事です。

第一次世界大戦1914-1918

第一次世界大戦1914-1918

世界が二分され、国家が総力戦を行う新たな戦争のスタイルが、帝国主義が総括を受けていく時代の始まりとでも言うのでしょうか。
日英同盟の関係もあり、日本も参加したのですが、主戦場が欧州だった為、青島や南洋諸島等、アジアに存在していたドイツ領の攻略に終始。
結果、それらのドイツ領を得て、特に南方の島々を得た事もあり、戦後、海軍の増強が必要になります。

この事が、当時、ハワイ?グアム?フィリピンを支配していて、当然ながら、中国大陸への利権獲得の為、進出を目論んでいたアメリカとの対立が発生させます。
また、海軍の増強に迫られた結果、それまで輸入に頼ってきた軍艦の購入が、国内生産へとシフトしていく事が、造船技術の蓄積へと繋がっていきます。
今日の世界一といわれる、日本の造船技術の原点は、この所にあったとも言えます。

この大戦によって、欧州各国の国力は消耗し、世界のリーダーはアメリカへと移行しました。
そのアメリカにより、これまで日本の成長を支えてきた日英同盟は破棄され、この後の日本の動きは、アメリカに巧みにコントロールされていく事になります。

満州事変1931

満州事変1931

第一次大戦後のアメリカは、空前の好景気が訪れます。
しかし、欧州各国の回復と共に、その好景気も陰りを見せ始め、終にはアメリカで起こった恐慌が、世界へ波及し、世界大恐慌と呼ばれる世界規模の不景気が訪れます。
これまでの帝国主義が、世界の経済を、グローバルなコミュニティへと導いていった結果でしょうか。
そうして、第一次世界大戦の様に、戦争も世界規模へ波及するようになり、また、経済も世界規模へ波及する様になってきます。

ただこの時期は、経済を統制する機能がまだ不十分であり、自分たちが生き残る為に、各国が手探りで対策を打っていく時代でした。
各国はブロック経済を敷き、自国の経済圏の回復を目指しますが、世界全体の回復が遅れる事で、結果として、第二次世界大戦へと繋がってしまいます。
日本の場合、財閥と軍部が結び付き、満州国という日本に都合の良い国家を作り出す事で、活路を見出そうとしていきます。
この強引なやり方は、当然ながら、諸外国から批判を受け、世界から孤立していく事になってしまいました。
日本から見ると、拡大を続ける帝国主義バブルをもう一度、という事なんでしょうが、疲弊している西欧諸国には、それに付き合う余力もなく、軍縮への道を模索し始めます。

また、資本主義が危機的な状況下のこの時期より、世界的にも、民族主義/全体主義と軍事力をあわせ持つ勢力が台頭し始めます。
ドイツにおいても、ヒットラーがこの混乱期に、巧みな政治的手腕で、第一次世界大戦後の回復を見せ始めます。
(共産勢力への対抗という意味で資本主義勢力が見過ごした経緯もあります)

五一五事件~二二六事件1932/1936

五一五事件~二二六事件1932/1936

一般的に、五一五事件はテロの失敗、二二六事件はクーデターの失敗、と認識されているようです。
満州事変後、軍部の台頭が目立ち始め、暴走を始めた結果として発生した様ですが、流石に国民に受け入れられる事もなく失敗します。

ただ軍部の台頭は避けられず、明治以後、外交の下に位置していた軍事が、軍事の為の外交へと変遷していく事が、孤立を深め、次なる大戦へと導いてしまいます。
しかしながら、この頃の不幸な歴史があればこそ、現在の恐慌を世界規模で対処していく事の大切さを作り出しているといえます。

第二次世界大戦 太平洋戦争(大東亜戦争)1941-1945

第二次世界大戦 太平洋戦争(大東亜戦争)1941-1945

第一次世界大戦で漁夫の利を得たアメリカ経済も、欧州の復興と共に陰りを見せ始め、終には世界規模の大恐慌を引き起こします。
この事が、世界を新たな枠組みへと向かわせます。
欧州においては、第一次世界大戦の敗戦国であったドイツが、巧みな外交手腕で国際社会へ復帰し、国家としての主権を確立し、軍事力の回復を見せます。
更にはこれを背景に、軍事繋がりの勢力を、巧みに形成していきます。
そうして、1939年ポーランド、1940年フランス、と、僅か数年で、ヨーロッパのほぼ全域を制圧下に納めます。

同じ頃、ドイツと同様に、軍事力でこの時代を乗り切ろうとしていた日本は、中国大陸へ進出し、泥沼の戦いへ足を踏み込んでしまいます。
そして軍事力繋がりで、ドイツの陣営につきました。
これ以前に、満州事変後、軍部にコントロールされた外交は、国際社会からの孤立を深めるだけでした。
更に、第一次世界大戦後獲得した南洋諸島や、増強する海軍力は、アメリカの利権とバッティングし、警戒心を煽り対立を深めました。


このページのトップへ