Si-phon Game Club (SGC)Simulation Game & Column (SGC-シミュレーションゲームとコラム-)

| Si-phon トップページへ | 表示 | | 管理 | 分類 | 履歴 |
長篠の合戦 について 9 years ago
-長篠の合戦イメージ-

一般に『長篠の合戦』というと、三段に並んだ、織田三千挺の鉄砲隊が、武田騎馬軍団をバッタバッタと倒していく、
そういうイメージが強いのではないだろうか。
これは、江戸時代の講談を元に、明治以降、急速に広がっていったイメージである。

だが近年、三段構えの鉄砲隊も、三千という鉄砲の数も、武田の騎馬軍団も、現実的では無いという論が強い。
しかしながら確固たる証拠が出ない為に、既に浸透しているイメージ像を崩すのは、簡単な事ではない。
様々な解説本があるにも関わらず、曖昧な表現が多いのも、この為なのだろう。
先日発売された『ウォーゲーム日本史第7号長篠・設楽原合戦』も、この問題に切り込んでいる。

-諏訪四郎勝頼像-

武田信玄の跡を継いだのは、四郎勝頼である。
長男で嫡男でもあった太郎義信が、廃嫡させられた事により、後継ぎとされたのは有名な話しだ。
だが、後継ぎとはされたものの、正式な後継ぎは子の信勝であり、勝頼はその後見人だという。
信玄が勝頼を正式な武田家の後継ぎとせず、その上、様々な制約を課したのは何故だろうか。

太郎義信は、甲斐源氏の棟梁として、武田の後継ぎとして、その為の教育を受けて育った。
対して四郎勝頼は、諏訪を継ぐ者として育てられた。
この「諏訪という特殊な後継ぎ」である事が、大きく影響していると思われる。

諏訪は神官でもある。武家とは違った側面から、人心を掌握している。よって信玄も、この点には慎重だった。
勝頼はそうした背景の下、諏訪を継ぐ事により、甲斐・武田家を支えるという教育を受けて育つ。
また諏訪の人々へ対しても、単に武田に侵略されたのではない、というアピールは重要であった。

なので信玄の死後、武田を継いだ後も、諏訪を捨てる訳にはいかなかったのである。
初めからそうして育てられてた勝頼は、この点に関してはちゃんと理解していたと思われる。
名を変える事に何ら抵抗が無い時代、立場が変わっても名を変えなかった理由は、これなのではないだろうか。

諏訪四郎として武田軍団の指揮を執行し、己の欲も表に出さない。
そうした人生を苦にしない人物。それが四郎勝頼像ではないのだろうか。周囲もこの事を理解していたのであろう。

-長篠の俗説と憶測-

話しは進んで、いざ長篠である。経緯は省略する。
この戦いについては、現在なお研究中の段階であり、憶測からの説も多い。ここでもそうする事とする。

一般に勝頼の敗因は、一門衆や主将=老臣たちとの対立が続き、決戦に臨んだ事が敗因の1つといわれる。
これは、武田信廉、武田信豊、穴山信君など、一門衆の多くが生き残ったのに対して、信玄公以来の老臣たちが、
挙って戦死している点からきているのだろう。そして「甲陽軍鑑」である。

この合戦において、一門衆が多く生き残った事は、勝頼を見下していた、戦意が低かった、という意見へ繋がっており、
老臣たちが多く戦死している事が、誡め的な意味合い、へ繋がっているのだろうか。
そういう書かれ方をよく目にする。

子供の頃読んだ漫画で、原作:新田次郎、画:横山光輝の「武田勝頼」なるものがあった。
ここでは穴山信君が、ちょっと「目先の効く悪役」として描かれていた記憶がある。それを抑えられない一門衆なども。
コミック漫画ながら、子供心に対し、大きな衝撃を与えられた。

一門衆のこうしたイメージは、後の武田家滅亡時における、急速な崩壊劇などが大きく影響しているのだろう。
だが、長篠の合戦へ挑んだ時点での組織を、滅亡時のものと混同すると「見誤る要素」も多い。
決戦時までの武田の軍団は、まだまだ強力な組織として機能していた、と思えるからだ。

-撤退戦の失敗-

合戦に臨むにあたり、織田側が、武田軍を恐れていたのは事実であろう。
諸説あるが、武田の約倍の兵力で臨んでいるにもかかわらず、長篠城の救援ではなく、ふた山離れた地に布陣し、
武田主軍を誘き出す。という事は、戦力の分散を狙っているのである。
しかも小川と田を挟んだ地に、馬防柵として有名な「陣地」まで構築している。
ある程度の長期戦も狙い、兵糧が尽きて、敵が引き上げていく事も視野に入れていたのであろう。

但し、大量の鉄砲隊を率いていたのは、決戦に到った場合の備えであったと思われる。
二手三手、別の手を用意しているのは、手強い敵に対し、周到に準備している証でもある。

梅雨明けを計算して、その日に武田を引きずり出した、という説もある。
だがこれは、結果から作られた都合のよい話しではないだろうか。
長期戦を見計らい、天候により、織田の長槍隊、鉄砲隊、双方で対処できる布陣だと感じるからだ。

結果的に武田軍は攻撃を開始するが、やはり想像以上に被害が大きい。
勝頼は、これまでの織田の行動から察して、織田の動きは鈍いと判断し「撤退を決意」する。
ここで難しい殿役は、両翼に位置している、歴戦の主将たちの役目である。
確かに付き人が犠牲になる事はあるが、通常、主将たちを逃す為に、一門衆が殿を務めるなど、あまり聞かない。
能力値の高いユニットを逃がす為、低いユニットを犠牲にする事は「ゲーム的発想」なのである。現実にはそぐわない。

-誰も処分されない理由とは-

つまり「勝頼が撤退を決意」したので、一門衆は撤退を開始した。と判断する。
初めに撤退した隊が、さっさと撤退しないと、後続の隊は撤退できない。一門衆に被害が少ないのはこの為である。
三増峠のような戦いは想定していないのだ。
ここで織田軍の追撃が始まる。被害が増し、殿を務めた主将たちは討ち取られた。

殿の隊は、勝頼と一門衆を逃す為の決死隊だったに違いない。織田の被害もこの時多く出る。
追撃戦が中半端に終わったのもこの為だろう。と、そう思いたい。
被害が予想以上に大きいと、お互い、相手を大きく見積もりがちになる。近年出てきた例ではノモンハンがそうだろう。

これら一連の流れが、結果と人間関係を中心に「甲陽軍鑑」へ綴られた。
敗戦の原因を勝頼ではなく、一門衆の誰かに落ち着かせたい。その一心があったのかもしれない。
高坂昌信によって、一門衆への処分案が出されたそうであるが、勝頼は処分案を実行しなかった。
そもそも諏訪四郎として育てられた勝頼に、一門の誰かに責任を押し付ける等という、卑怯な選択肢は無かったのである。

-金の切れ目が縁の切れ目-

信玄時代から続く遠征の費用もあってか、勝頼の時代になると財政は苦しくなったという。
やはり大軍を率いて続ける遠征のツケは大きい。それでも信玄の頃は、得るものも大きかった。
国取りという戦略下の行動でもあり、北条との戦いも、後の牽制になった事は大きな成果であるからだ。
だが勝頼の戦略は、決して国取りではなく、城取りに終始している。
これは費用対効果という面において、大部隊での遠征では、かなり効率が悪い行動なのだ。

戦ノ国初回特典冊子』にて、白浜氏が「土地の所有権」という問題に視点を置いて展開している。
自分達が所有している土地の所有を、誰が認め保障してくれるのか、という現実的な問題だ。
確かに長篠までは、武田の軍団員を保障する人は、武田の棟梁であった。目立つ事に先方衆の奮戦がある。
だが残念ながら、長篠の敗戦によってこれが崩れ去った。

老獪な人物ほど、当然の行動として、新たに身を保障してくれる勢力を探すものである。
武田家滅亡時のイメージを以って、信玄死後から引きずっている問題だと考えるのは、いささか問題ではないだろうか。

2010年9月22日、自身、持っていた疑問を投げかけてみる。


関連記事リンク
『ウォーゲーム日本史第7号長篠・設楽原合戦』 とは
『戦ノ国初回特典冊子』 とは