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関ヶ原の戦い について(第二部) 10 years ago
-親の心、子知らず-

東北を結城秀康にまかせ、江戸を発した家康軍と秀忠軍であるが、ここまでは家康の思惑通りに事は進む。
一般に、関ヶ原の「遅参を咎められた」とされる秀忠であるが、咎められたのは遅参が原因なのだろうか。
そもそも、この二つに分かれた行軍ルートの意義は何だったのだろうか。と、何時も思う。

例えば、上杉謙信が関東へ出征する時、北関東の諸将はこぞって上杉の味方となった。
だが越後へ帰っていくと、何事もなかったのような状態に戻ったという。
要は「長いものには巻かれてろ」みたいな風潮があるのだろう。

家康からしてみると、武田の旧家臣団をかなり吸収している。
よって周囲へ対しても、武田に代わる新しい領主は「強い徳川」である、その事を見せつけなけれはならない。
という所で、二手に分かれての行軍ではなかったのだろうか。そしてその主力は、武田の旧領を通る必要がある。

しかし、秀忠は真田に負けての行軍である。真田は武田の旧臣の筆頭みたいなものだ。それも外様的な。
これでは「新たな領主ってたいしたこと無いんだな」と、わざわざ言って回った様なものである。
しかも武田の旧領で、なのだ。これでは家康も腹立たしいだろう。顔も見たくない理由はこれではないのだろうか。
親父の意図も汲み取らず、花道が泥道になったのである。

-GameJournalNo.32「霧の関ヶ原」での展開-

今回は付録ゲームの方ではなく、記事の方のご紹介である。
勿論、詳しくはゲームジャーナル32号をご覧頂く事とするのだが、掲載されている内容を掻い摘んでご紹介する。

まず誌面においては『霧の関ヶ原』という切り口を、「関ヶ原の戦いは遭遇戦」であったとしている。
この点について、当時の道路事情や行軍速度を用い、時系列にて丁寧に語られている。
大垣城を発した三成軍と、それを追う家康軍の行程表である。

WWII終盤、ドイツ軍攻勢を再現した「バルジの戦い」なるゲーム群のプレイ経験があるゲーマーの方々ならば、
この戦いの特徴である「渋滞ルール」などを想像してもらえると、意味がわかり易いだろう。
所詮、道路のキャパシティをオーバーした移動など出来ないのである。

という所で合戦が発生した朝8:00頃、西軍が待ち受ける中へ、行軍中の東軍の先鋒衆が突入。
そこから合戦が始まり、東軍は次々と戦線へ到着・投入されて行き、家康本軍は到着していなかった説である。
図表が多くわかり易いので、興味がある方は一見の価値ありだと感じる。どうであろうか。

-関ヶ原での決戦、その前に-

これよりは上記、ゲームジャーナルの説に続けて、当方の見解を続けたい。
まず大垣城を出発した西軍一行であるが、続く東軍の動きを見ていると「追激戦の模様」を感じる。

毛利軍陣取る南宮山の南側を通り行軍する西軍であるが、東軍は北側のルートにて進軍する。
もし本当に、関ヶ原での決戦を想定していたら、東軍は危険な夜間の行軍を行うであろうか。
南宮山には毛利の大軍が居座っているのである。

東軍の陣立てを見るに、突き進む東軍先鋒衆は、秀吉子飼いの大名揃いである。
家康からしてみると、これらの部隊は敗走しない限り、消耗しても痛くも痒くもない。
まして、退却中と見られる西軍へ一撃加えれれば、それに越した事はない。
毛利軍にしても、後ろにいる徳川本隊を前に、この東軍先鋒衆へ攻撃を加える事があるだろうか。

東軍先鋒衆が三成軍へ一撃を加え、家康本隊でもって毛利を牽制する。
そうして退却中と見られる西軍が敗走した場合、取り残された毛利軍はどうなるであろう。
更に東軍には、後続の大部隊として、そのうち秀忠率いる徳川本隊が到着するのである。
多少消耗させても良い、秀吉子飼いの部隊で三成を追撃させ、家康本隊は温存するしつつ、徳川が毛利を降す。
これが理想であろうし、家康のポイントはここにあったのではないだろうか。

両軍が大垣城、及び、赤坂から関ヶ原へ移動する時点の「小早川と吉川の配置は毛利対策」と見える。
だからこそ、退却中とみた三成軍への追撃隊は、福島・黒田隊を中心とした軍だったのではないだろうか。
三成を敗走させ、小早川と吉川に挟まれた毛利を徳川が降し、この戦いを終える。これが家康のシナリオだろう。

-小早川秀秋の意図-

そこで松尾山に陣取った小早川軍である。
この時点で、小早川秀秋は裏切る気満々であったと見ている。巷で言われる迷いがある訳がないと。
この直前、秀秋は筑前名島30万石から越前北ノ庄15万石へ減封されかかっている。
定かではないが、三成が減封を図り、家康がこの処分の撤回を取り成したと言われている。
また、結果的に小早川家の養子が実現し、秀秋の保身が図れたのは「黒田家の智恵」である。

一般に秀秋は暗愚であったと言わているが、仮にも秀吉より教育を受け、秀次の末路を見てきた人物だ。
期限付きの関白職など、何の魅力があろうか。まして、三成一党に囲まれてのである。
この状況下において、秀秋から見る行動判断の最大要因は、毛利の動きであったと見ている。
血縁関係は無いものの、小早川家は毛利の分家みたいなものであり、隆景以来の旧臣もまだ残っていただろう。

問題はタイミングなのである。

(つづく)

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